北野町の住居1も竣工するので設計意図を整理してみたら
施主の望みはこうでした。敷地はこういう性情でした。
法律はこうで、こうなった。という短くてつまらない文ができた。
海を眺めながら世捨て人のように設計をしていると、設計しているものに対して特に言語化しないで良い為、いざ言語化しようと思ったとき、戸惑ってしまう。
上記のような説明は施主に対して日々行っているので言語化されているのだが、そうではない部分についてはなかなか言い表せない。
なにも無いわけでは無いはずなのだが。
なんで自分が作ったものを自分で解説しないといかんのだといって煙に巻くよな文章を捏造するのはまぁ簡単なのだが、言葉でも興奮させられるような設計をしないとね
とか考えて日々駄文を繰っておるわけだ。
(つまりは治療の一環で御座います)
最近クラシックばかり聴いてたせいか反動でガチャガチャしたのが聴きたくなり2 MANY DJ’Sのマッシュ・アップ(NIRVANAとDISTNY’S CHILDをMIXしたりする)CDを(いまごろ)買う。見事にガチャガチャしてて満足。
現在設計中の北野の住居Ⅱの敷地。
周囲より一段低く、南と西をワンルームマンションの取り囲まれ、おまけに敷地の真ん中当たりで一段大きく下がっているという面白い土地。このワンルームマンションからの視線を遮りつつ、かつそれが周辺に対して否定的でないような建ち方が無いだろうかと思案中。最近はなにごとも「拒絶しない」がテーマ。
デュシャン展に行く。シーザー・ペリの国立国際美術館は噂に違わぬ超どうでもいい出来。愛が感じられない。南泰裕氏の批評を読むと、成る程そういう解釈も成り立つかとは思うがそれにしても地上部のオブジェももう少しなんとかならんのか。
デュシャン展はクロニクルといってもいい内容で予想以上。[遺作]は困惑させられる作品だった。なんなんだろうあれは。
きわめてよいふうけい
手前にある工事中の鉄骨は遠藤秀平氏の住宅 ROOFTECTURE/塩屋
逆光でほとんど見えませんが。
その隣には林敬一氏が住宅を建て、向かいは管匡史氏の住宅。
ちょっとした建築家村になっている。崖地で建築家しか手を出せないのが実態だが。
http://www.g-cans.jp/行きたかった。。
プレーナーのかかっていない厚めのベイヒバ材が美しい。
が、これは黒く塗ってしまう。この美しさは別の機会に使おう。
帰りにライヒのシティ・ライフとarthur russellをTUTAYAで借りて帰る。
TUTAYAも変なの仕入れるなぁ。
板宿の家の契約日が決まり、いよいよ忙しくなりそう。
x Close
タト